一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)
仏教誕生から、大乗仏教の発生。さらに日本においてそれは浄土教となり「悟り」よりも、民衆の「救済」に主眼を置くようになりました。
その究極型ともいわれる一遍の思想を知る。いや、深みだけは我々にも垣間見ることができます。
読めば人生が変わるかもしれない一冊です。
その究極型ともいわれる一遍の思想を知る。いや、深みだけは我々にも垣間見ることができます。
読めば人生が変わるかもしれない一冊です。
一遍上人―旅の思索者 (新潮文庫)
栗田勇氏は、この様な「日本文明の原点に在る様な人」を、書く様になる以前は、確かフランス文学者であったと記憶する。氏の若い頃は敗戦直後であり、フランス文学は人類の至宝の如き趣があったのに相違ない。当時、多くの進歩的文化人と称する人々が、フランス文学に向かったと思う(直截にいえばフランス文化の方が日本文化より優れているのだと誤解した人々、故にその人たちはフランスに留学した)。フランス!それは遠い西洋への憧れが亢進した時代であった。事実、フランス文学科は、大學の文学科の主流であり、未知の物への強い憧れがあったのであろう。だが、フランスは遠い、それは距離だけではなく、心理的に遠いのだ。「フランスに行きたしが、されどフランスは遠し」と、朔太郎は嘆くが、未知の遠い物に、美しき極楽を祈念するのは人間の性でもある。ただ、現在のフランスは、資金と暇があれば時間的には数時間で行ける所にあるが、フランスは農業国で絶対王政の花開いた優雅な国でもあるが、今では、誰しもフランスに「極楽」を見る人は居ないであろう。だが、敗戦直後には日本では日本語を止めて、全部フランス語にしたら好いと云う、狂気じみた意見が有力な学者の口からも飛び出る時代であったのだから。
ここでは、栗田氏は捨聖一遍をお書きに成っている。投稿者も、だいぶ昔20代の終わりごろから空也とか一遍に興味を抱いた。家の宗派は浄土真宗であるが、時衆(時宗)に興味を抱いた切っ掛けが何であったか思い出せない。しかし、「一遍上人絵伝」が岩波文庫で出ていたのでそれを購入して読んだ。確か、四国の生まれで、讃岐か?どこか?武士の家に生まれたが、人生に悲観して、(なにゆえの悲観なのか、伝説は一遍の心の中までは語っていない)継ぐべき家を棄てて、遊行の放浪へと旅立つ。彼の意識の根底にあったのは、西行法師や空也の足跡があったのかも知れない。「捨ててこそ・・・捨ててこそ・・・」、これは、今も当時も、凡そ価値観の根本的な転倒であった事は間違いない。今と変わらず一遍の時代に於いても、捨てることは嫌だ!、「拾ってこそ・・・、拾ってこそ・・・、」という時代であったのだろう。物欲は、その後も大いに亢進し、それが人を迷わせ、多くの悲劇を創出する。物欲も常識的範囲ならば、人間は正しく生きることが出来るが、箍の外れた欲望と云うものは、自家中毒を引き起こし、当人を破滅に至らしめる。これは一遍のむかしも、現在も変わる事のない至言であろう。
当時の人々はどんな心持で日々を暮らしていたか、人々は生と死を、どのように捕らえていたのか、天台僧、源信の「往生要集」は、民衆に浸透していたのだろうか。景戎の「日本霊異記」の説話は、当時の民衆のこころの有様を書き表しているのだろうか。様々な思いが脳裏をよぎる。「捨ててこそ・・・」という言葉は、あれも欲しい、これも欲しいと、心をたぎらせている私自身の沸騰を冷やすものだ。利便さを追求し、必要も無い物を買い続けて、肥大化し亢進した欲望は、やがていのちの果てになにが在るかを忘れさせる。欲しいものではなく、「必要なものは何だろう」と、考えを変えたとき、「ほんとうに必要なもの」は、以外に少ない事に気が付く。然し、一遍が云おうとしている事は、こんな即物的な次元の事ではない。我々の心の中にわだかまっている、業を捨てよ!と唆しているのだ。踊る宗派、と云われるのが遊行が「時宗」の別称です。絵伝は、高い舞台に登って踊る、市井の人々の陶酔の喜びを現している。出会うあらゆる人々に「南無阿弥陀仏」のお札を配る一遍の姿は、粗衣をまとい、従者より一段と黒く日焼けしている。我々は外国渡来の仏教が、本当の日本佛教に成った揺籃の時代が鎌倉時代である事を知っている。そこには現在の日本佛教の師が殆ど出現しているのだ、法然・親鸞・日蓮・明恵・道元・と、鎌倉仏教は正に日本の仏教なのだった。鎌倉期になぜ、この様な祖師たちが出現したのか?まだその答えを、私達は見い出してはいない。
ここでは、栗田氏は捨聖一遍をお書きに成っている。投稿者も、だいぶ昔20代の終わりごろから空也とか一遍に興味を抱いた。家の宗派は浄土真宗であるが、時衆(時宗)に興味を抱いた切っ掛けが何であったか思い出せない。しかし、「一遍上人絵伝」が岩波文庫で出ていたのでそれを購入して読んだ。確か、四国の生まれで、讃岐か?どこか?武士の家に生まれたが、人生に悲観して、(なにゆえの悲観なのか、伝説は一遍の心の中までは語っていない)継ぐべき家を棄てて、遊行の放浪へと旅立つ。彼の意識の根底にあったのは、西行法師や空也の足跡があったのかも知れない。「捨ててこそ・・・捨ててこそ・・・」、これは、今も当時も、凡そ価値観の根本的な転倒であった事は間違いない。今と変わらず一遍の時代に於いても、捨てることは嫌だ!、「拾ってこそ・・・、拾ってこそ・・・、」という時代であったのだろう。物欲は、その後も大いに亢進し、それが人を迷わせ、多くの悲劇を創出する。物欲も常識的範囲ならば、人間は正しく生きることが出来るが、箍の外れた欲望と云うものは、自家中毒を引き起こし、当人を破滅に至らしめる。これは一遍のむかしも、現在も変わる事のない至言であろう。
当時の人々はどんな心持で日々を暮らしていたか、人々は生と死を、どのように捕らえていたのか、天台僧、源信の「往生要集」は、民衆に浸透していたのだろうか。景戎の「日本霊異記」の説話は、当時の民衆のこころの有様を書き表しているのだろうか。様々な思いが脳裏をよぎる。「捨ててこそ・・・」という言葉は、あれも欲しい、これも欲しいと、心をたぎらせている私自身の沸騰を冷やすものだ。利便さを追求し、必要も無い物を買い続けて、肥大化し亢進した欲望は、やがていのちの果てになにが在るかを忘れさせる。欲しいものではなく、「必要なものは何だろう」と、考えを変えたとき、「ほんとうに必要なもの」は、以外に少ない事に気が付く。然し、一遍が云おうとしている事は、こんな即物的な次元の事ではない。我々の心の中にわだかまっている、業を捨てよ!と唆しているのだ。踊る宗派、と云われるのが遊行が「時宗」の別称です。絵伝は、高い舞台に登って踊る、市井の人々の陶酔の喜びを現している。出会うあらゆる人々に「南無阿弥陀仏」のお札を配る一遍の姿は、粗衣をまとい、従者より一段と黒く日焼けしている。我々は外国渡来の仏教が、本当の日本佛教に成った揺籃の時代が鎌倉時代である事を知っている。そこには現在の日本佛教の師が殆ど出現しているのだ、法然・親鸞・日蓮・明恵・道元・と、鎌倉仏教は正に日本の仏教なのだった。鎌倉期になぜ、この様な祖師たちが出現したのか?まだその答えを、私達は見い出してはいない。