受験生ブルース 高石友也 フォーク・アルバム第2集(+4)~第2回・高石友也リサイタル実況より~
「友よ」岡林さんの曲ではありますが、収録した会場の気配が
たまらないです。フォーク黎明期の息遣いをみごとに保存しています。
他の労働歌もいいいですね〜。
観客とともに歌うリサイタル、今やる方がいたら行ってみたいです。
もちろん、うたうのは当時の歌ですけど。
たまらないです。フォーク黎明期の息遣いをみごとに保存しています。
他の労働歌もいいいですね〜。
観客とともに歌うリサイタル、今やる方がいたら行ってみたいです。
もちろん、うたうのは当時の歌ですけど。
高石ともやとザ・ナターシャ・セブン
本LPは1972年12月、東芝エキスプレスからリリースされた。
高石ともやは1969年末でいったん音楽活動から退き、居を福井県名田庄村に置き、一身渡米した。帰国後の71年2月に結成したのが、オールド・タイミーやプルーグラス、日本民謡に範を求めた和製音楽グループ、ナターシャー・セブンであった。そこには全く新しい高石ともやの姿があった。この時のメンバーは高石の他、城田じゅんじ、金海たかひろの3人だと記憶する。岐阜・中津川の笠置透率いる我夢土下座らと交流を重ね、日本のフィールド・フォークを作り上げていった。本アルバムから「近江の子守唄」「たづるさん」がシングルカット。「近江の子守唄」のイントロで流れる尺八ぽい音色が何とも印象に残るが、この楽器は小学校で学習するリコーダーのはずである。「たづるさん」では永六輔が一本指のピアニストとして参加している。
高石ともやは1969年末でいったん音楽活動から退き、居を福井県名田庄村に置き、一身渡米した。帰国後の71年2月に結成したのが、オールド・タイミーやプルーグラス、日本民謡に範を求めた和製音楽グループ、ナターシャー・セブンであった。そこには全く新しい高石ともやの姿があった。この時のメンバーは高石の他、城田じゅんじ、金海たかひろの3人だと記憶する。岐阜・中津川の笠置透率いる我夢土下座らと交流を重ね、日本のフィールド・フォークを作り上げていった。本アルバムから「近江の子守唄」「たづるさん」がシングルカット。「近江の子守唄」のイントロで流れる尺八ぽい音色が何とも印象に残るが、この楽器は小学校で学習するリコーダーのはずである。「たづるさん」では永六輔が一本指のピアニストとして参加している。
想い出の赤いヤッケ 高石友也 フォーク・アルバム第1集(+4)
と思える歌が多い。しかし、「チューインガム一つ」は日本のフォーク史に残る大傑作。「受験生ブルース」が大ヒットしたが、この曲が関西フォークの真髄でしょう。この曲を聴いて泣ける人は感受性の豊かな人だと断言できます。