通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)
小説やエッセイは好きでよく読むのですが
詩というものになんとなく敷居の高さを感じていました。
この本は書店勤務の友人にすすめられたのですが、その友人にはほんとうに感謝しています。
詩ってことばの結晶なのですね。
きらきら光る結晶のうつくしさに思わず涙がこぼれることもありました。
編者の
詩を読む態度として必要なのは、その詩を理解しようとか解釈しようとか説明しようというものではなく、
その一篇に、丸裸の心を差し出し、その一篇と踊る用意があるかどうかという、それだけだ。
ということばにも打たれました。
詩というものになんとなく敷居の高さを感じていました。
この本は書店勤務の友人にすすめられたのですが、その友人にはほんとうに感謝しています。
詩ってことばの結晶なのですね。
きらきら光る結晶のうつくしさに思わず涙がこぼれることもありました。
編者の
詩を読む態度として必要なのは、その詩を理解しようとか解釈しようとか説明しようというものではなく、
その一篇に、丸裸の心を差し出し、その一篇と踊る用意があるかどうかという、それだけだ。
ということばにも打たれました。
ことば汁 (中公文庫)
川上弘美氏や小川洋子氏の幾つかの作品と趣が近いな、というのが第一の印象。そしてそれは、当然のことながら否定的な意味ではない。そもそも、彼女たちと同じ次元で物を書けること自体が、とんでもないことなのだから(彼女たちがこの著者と同じ次元で書けることもまた、同義ではあるが)。『裁縫師』を初めて読んだ時の衝撃以来、このひとは私の中で常に気になる存在になった。そして今作もまた、素晴らしい作品が揃っている。なかでも『野うさぎ』は凄かった。ものを書けなくなった物書きが、森の中で老婆と出逢う・・・物語は起伏に富んでいるが、その流れ方は何とも個性的だ。現実と妄想のコントラストのつけ方が絶妙といおうか・・・おそらく、言葉に対する嗅覚のようなものが、このひとは優れているのだろう。そのうえで、感覚的に物語を綴っていく。たぶん、本当はものすごく構築的に考え抜かれているのだろうが、それを感じさせない夢のような物語・・・やはり、このひとはすごかった!!!
たまもの
小池昌代『たまもの』を読みながら、あ、ことばが楽になってきたなあ、と感じた。私は、それほどていねいに小池昌代を読んできているわけではないので印象批評になってしまうが、何かをことばで追い詰めていくという感じから、ことばをその場その場で動かして、それが動くがままにしている、という感じがする。この小説では。
昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)
<blockquote>
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、
<blockquote>
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。
<blockquote>
神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。
</blockquote>
ここは、散文というより、詩である。
ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。
こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
そして。
私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。
昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)
<blockquote>
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、
<blockquote>
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。
<blockquote>
神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。
</blockquote>
ここは、散文というより、詩である。
ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。
こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
そして。
私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。