大河のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
インドのサタジット・レイ監督によるオプー三部作の第2作。
オプーのベナレスでの少年時代からカルカッタでの大学時代までを描いていますが、まずはベナレスの有名なヒンドゥー教の聖地であるガンジス河のガートを撮影したモノクロ映像が素晴らしい。
河を舟でゆっくりと下りながら沐浴する人々を撮っていますが、日常生活に密着したヒンドゥー教の姿がそのまま飾ることなしに撮影されています。
私自身、一度ここを観光旅行し、同じようにボートで河を下ったことがありますが、外国人が増えただけで、河、建物、牛、人々の姿・・ほとんどこれと同じでした。「悠久」とはこのことです。
ガンジス河流域の狭い住宅街での生活描写も見事で、たくさんの人間と動物が出てくる映像から生活の臭いがしてくるようです。
ドラマとしては、第1部「大地のうた」と第3部「大樹のうた」に挟まれた「つなぎ」みたいな感じもしますが、オプーが通う小学校や大学生活の描写に「大地のうた」では見られなかったユーモラスなところもあり、やはりインド芸術映画の佳作だと思います。
オプーのベナレスでの少年時代からカルカッタでの大学時代までを描いていますが、まずはベナレスの有名なヒンドゥー教の聖地であるガンジス河のガートを撮影したモノクロ映像が素晴らしい。
河を舟でゆっくりと下りながら沐浴する人々を撮っていますが、日常生活に密着したヒンドゥー教の姿がそのまま飾ることなしに撮影されています。
私自身、一度ここを観光旅行し、同じようにボートで河を下ったことがありますが、外国人が増えただけで、河、建物、牛、人々の姿・・ほとんどこれと同じでした。「悠久」とはこのことです。
ガンジス河流域の狭い住宅街での生活描写も見事で、たくさんの人間と動物が出てくる映像から生活の臭いがしてくるようです。
ドラマとしては、第1部「大地のうた」と第3部「大樹のうた」に挟まれた「つなぎ」みたいな感じもしますが、オプーが通う小学校や大学生活の描写に「大地のうた」では見られなかったユーモラスなところもあり、やはりインド芸術映画の佳作だと思います。
大樹のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
3部作の中でどれがいちばんおもしろかったか、と聞かれて、眠ってばかりいたわたしはとっさに答えたのが第3作目の本作「大樹のうた」だった。前作までよく眠ったので3作目は眠らずに済んだから。そして何よりおもしろくて眠らずに済んだから。
しかし、賢そうな友人たち二人はともに「第一作目」を挙げたのだった。
それから42年後の現在、見直してみて思うにやはりわたしには第3作目が「一番おもしろい」と答えたい。
負けず嫌いでいうのではない。わたしのポピュリズムがそうだというのだ。第1作目はたしかに崇高だ。
創造者は必ず3部まで作りたがるという。創造は三部構成になっているようだ。そして第1作目が一番おもしろい、とよくいわれている。そういうことでは第1作目がいいデキだったとはいえる。
創造者は処女作を越えられるか、といわれているが、なかなか越えられないといわれている。創造者のそれまでの全てが内包された神話のようなものだからだ。
崇高さ、神聖さが好きな人なら以上のことで第1作目になるだろう。ところが私は根っからの俗物(ポピュリスト)である。
第1作で成功したサタジット・レイ監督はしかし第2作は興行的に失敗した。他の作品の制作で糊口をしのぎ、やっと制作に漕ぎついた第3作は大人の知恵を大分学んだのではないだろうか。
長い前置きになったが、第1作目からすればお金と技術が潤沢になり、かわりに大衆受けする要素を盛り込んだ、神話性、崇高さに引かれる者にはテレビドラマのようでレベルの低いものに見えたことだろう。しかしわたしにはそういうものでなければつまらないと感じるタイプなのだ。
具体的にいうと本作はよくある青春ドラマなのだ。経済的事情で大学を中退せざるを得なかったオプルボ・ライ(オプー)は就活するもうまく行かずくさっていた折、友人のプルーに誘われて田舎の結婚式に行くのに付き合わされる。花婿が暑さに発狂してしまい、花嫁が呪われるという迷信によってオプーが代役で花嫁を引き取らされてしまう。こうして始まった新婚生活がわたしのような根っからの俗物には楽しいのだ。
学生時代は未熟だったからか、花嫁の美しさがまるで分からなかった。今見ると、なんととても美しくかわいらしい。初夜の動作も奥深しい。
俗物から声を大きくして訴えたい! やはり「大樹のうた」はいい! むしろ大発見だ。
花嫁オポルナは美少女だ!
続くカルカッタでの新婚生活もとっても愛らしい。愛があれば貧しさは耐えられる・・・その勢いは出産のために帰省する嫁を見送るプラットホームのシーンまで続く。
嫁さんは早産のダメージで死んでしまい、落ち込んだオプーは虚無的になって放浪し、大切な小説の創作も捨ててしまう。ものすごく深刻な場面だが、ここら辺はちょっと引いて見れば笑い話だ。愛の薄い現代人ならはたしてそこまで深刻になれるか。映画の原作者も愛する人の死をネタにして小説にした(・・・猛省)。映画では葬式に出た気配が感じられない。割愛したのだろうか。ともかく忘れ形見の息子に一度も会いに来ない。義父は憤りを感じている。その捌け口がかわいいはずの孫への仕打ちだ。孫は孫ですっかりひねくれている。
友人プルーは第2部からの同級生で貧しいオプーを何かと面倒を見てくれているが、嫁を紹介したという責任感もあってか、彷徨するオプーを探し当て、息子に会えと説教する。オプーには会えないわけがあった。息子は愛する妻を死なせた張本人だからだ。なるほど、そういう思い込み方もあったかと思う。われわれなら、子どもは妻の忘れ形見として、妻への愛情を代わって子どもに注ぐ。それが過干渉になって問題を起こす、という形になるのではないか。インドではそう来るか、という感じだ。息子といえども、他者だ。それでも友人の厚意を尊重して会いに行ったオプー。オプーが息子を許した場面はない。会いにいったときはすでに許していた趣がある。単に様子を見に行ったとも受取れる。もしそうならどこで、いつ彼は息子を許したのか。ひねくれている息子カジョルとどう和解するか。じいさんにステッキでせっかんされそうになったときではないか。オプーは身体を張ってやめさせたのだ。このとき、二人の溝はかなり狭まった。
カジョルは、オプーのことを多分、父親では?ということは感じているが、これまで全然会いに来てくれなかったという屈折がある。カジョルの気持ちを汲んで、「おじさんは何者?」という問いに「友だちだ」と答える。そう、父親なら和解するのに時間がかかる。しかし友だちならすぐに欲しいだろう、と読んでのことだ。そして息子を肩車する。最高のスキンシップだ。垣根の亡くなった二人の間ではもはや、父親、友だち、どちらでもいいのだ。それがさしあたっての和解なのだ。
ちなみにこの息子も非常なる美少年だ。この少年の瞳は「ミツバチのささやき」の少年の瞳を髣髴させる。
名作とは、特殊であるよりは一般的であり、一般的なもののお手本になるようなものではないか。つまり名作とは特殊なものではなく窮極の一般化。ポピュリズムの代表だ。みんなが望んでいるものを理想的に実現したもの。サタジット・レイ監督は3部作において、固有の作品と普遍の作品をともに完成させたのだ。
この和解の場面は名シーンと評価されているはずだ。「ペーパー・ムーン」の最後の場面、自由になりたい父親は生意気だが父を慕って付いていきたい娘にしてやられ、帽子を地面に叩きつけて承諾する名場面をなぜか思い出す。人生の喜怒哀楽はすべて池袋文芸座で教わった・・・と思われる。
しかし、賢そうな友人たち二人はともに「第一作目」を挙げたのだった。
それから42年後の現在、見直してみて思うにやはりわたしには第3作目が「一番おもしろい」と答えたい。
負けず嫌いでいうのではない。わたしのポピュリズムがそうだというのだ。第1作目はたしかに崇高だ。
創造者は必ず3部まで作りたがるという。創造は三部構成になっているようだ。そして第1作目が一番おもしろい、とよくいわれている。そういうことでは第1作目がいいデキだったとはいえる。
創造者は処女作を越えられるか、といわれているが、なかなか越えられないといわれている。創造者のそれまでの全てが内包された神話のようなものだからだ。
崇高さ、神聖さが好きな人なら以上のことで第1作目になるだろう。ところが私は根っからの俗物(ポピュリスト)である。
第1作で成功したサタジット・レイ監督はしかし第2作は興行的に失敗した。他の作品の制作で糊口をしのぎ、やっと制作に漕ぎついた第3作は大人の知恵を大分学んだのではないだろうか。
長い前置きになったが、第1作目からすればお金と技術が潤沢になり、かわりに大衆受けする要素を盛り込んだ、神話性、崇高さに引かれる者にはテレビドラマのようでレベルの低いものに見えたことだろう。しかしわたしにはそういうものでなければつまらないと感じるタイプなのだ。
具体的にいうと本作はよくある青春ドラマなのだ。経済的事情で大学を中退せざるを得なかったオプルボ・ライ(オプー)は就活するもうまく行かずくさっていた折、友人のプルーに誘われて田舎の結婚式に行くのに付き合わされる。花婿が暑さに発狂してしまい、花嫁が呪われるという迷信によってオプーが代役で花嫁を引き取らされてしまう。こうして始まった新婚生活がわたしのような根っからの俗物には楽しいのだ。
学生時代は未熟だったからか、花嫁の美しさがまるで分からなかった。今見ると、なんととても美しくかわいらしい。初夜の動作も奥深しい。
俗物から声を大きくして訴えたい! やはり「大樹のうた」はいい! むしろ大発見だ。
花嫁オポルナは美少女だ!
続くカルカッタでの新婚生活もとっても愛らしい。愛があれば貧しさは耐えられる・・・その勢いは出産のために帰省する嫁を見送るプラットホームのシーンまで続く。
嫁さんは早産のダメージで死んでしまい、落ち込んだオプーは虚無的になって放浪し、大切な小説の創作も捨ててしまう。ものすごく深刻な場面だが、ここら辺はちょっと引いて見れば笑い話だ。愛の薄い現代人ならはたしてそこまで深刻になれるか。映画の原作者も愛する人の死をネタにして小説にした(・・・猛省)。映画では葬式に出た気配が感じられない。割愛したのだろうか。ともかく忘れ形見の息子に一度も会いに来ない。義父は憤りを感じている。その捌け口がかわいいはずの孫への仕打ちだ。孫は孫ですっかりひねくれている。
友人プルーは第2部からの同級生で貧しいオプーを何かと面倒を見てくれているが、嫁を紹介したという責任感もあってか、彷徨するオプーを探し当て、息子に会えと説教する。オプーには会えないわけがあった。息子は愛する妻を死なせた張本人だからだ。なるほど、そういう思い込み方もあったかと思う。われわれなら、子どもは妻の忘れ形見として、妻への愛情を代わって子どもに注ぐ。それが過干渉になって問題を起こす、という形になるのではないか。インドではそう来るか、という感じだ。息子といえども、他者だ。それでも友人の厚意を尊重して会いに行ったオプー。オプーが息子を許した場面はない。会いにいったときはすでに許していた趣がある。単に様子を見に行ったとも受取れる。もしそうならどこで、いつ彼は息子を許したのか。ひねくれている息子カジョルとどう和解するか。じいさんにステッキでせっかんされそうになったときではないか。オプーは身体を張ってやめさせたのだ。このとき、二人の溝はかなり狭まった。
カジョルは、オプーのことを多分、父親では?ということは感じているが、これまで全然会いに来てくれなかったという屈折がある。カジョルの気持ちを汲んで、「おじさんは何者?」という問いに「友だちだ」と答える。そう、父親なら和解するのに時間がかかる。しかし友だちならすぐに欲しいだろう、と読んでのことだ。そして息子を肩車する。最高のスキンシップだ。垣根の亡くなった二人の間ではもはや、父親、友だち、どちらでもいいのだ。それがさしあたっての和解なのだ。
ちなみにこの息子も非常なる美少年だ。この少年の瞳は「ミツバチのささやき」の少年の瞳を髣髴させる。
名作とは、特殊であるよりは一般的であり、一般的なもののお手本になるようなものではないか。つまり名作とは特殊なものではなく窮極の一般化。ポピュリズムの代表だ。みんなが望んでいるものを理想的に実現したもの。サタジット・レイ監督は3部作において、固有の作品と普遍の作品をともに完成させたのだ。
この和解の場面は名シーンと評価されているはずだ。「ペーパー・ムーン」の最後の場面、自由になりたい父親は生意気だが父を慕って付いていきたい娘にしてやられ、帽子を地面に叩きつけて承諾する名場面をなぜか思い出す。人生の喜怒哀楽はすべて池袋文芸座で教わった・・・と思われる。
大地のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
1973年だったと思う。友人に誘われて神保町の岩波ホールに出かけ、三部作をいっきに鑑賞した。したがってほとんどを睡眠に費やしてしまって、残念な思いを長年続けていた。DVDで見直せるなんて、ずいぶんありがたい。醒めれば何度でも意識のあったところまで戻れる。なぜなら、その時、友人に「どれがいちばんおもしろかった?」と聞かれ、わたしは目を覚まし始めていた第3部「大樹のうた」を挙げた。みんなは第1部だった・・・。
インド・ベンガル地方の、かつて裕福だったかもしれないが、ひょっとするとバラモンか? と思われるような、神事を司るのを得意とする教養ある家柄。けれども、このような家柄ほど生活力がないものだ。父の代から落ち目になり始めていたバナルジー一家。高齢のおばとノー天気なお父さんと、おかげで一身に生活の切り盛りの責任を背負っているお母さんと、おばあさんを慕う優しさ溢れているがドロボー癖のある姉さんと息子のオプーの物語。「どん底」という言葉を連想させるほどのボンビー生活で、かつて所有していた果樹園も隣家のものとなり、母は悔しがり、娘は果樹の盗みをやめられない。頼りの父は、いつか文学作品を書いてオファーの殺到するのを夢見るばかり。
しかし、舞台が都会でなく田舎であることが救いだ。ときどき村を訪れる行商のお菓子屋さんや日本でなら紙芝居屋さんなどが訪れる。もちろん、かんたんにそれに甘んじられるほどの経済状態ではない姉弟だが、なんとなく享受でき、楽しむ。草原を横切る蒸気機関車の勇壮な姿を見に出かける。蓮の群れ咲く沼に出かける。・・・田舎には何もないはずなのだけれども、子どもたちの楽しめる何かがある。どこか、わが山形の風景を思わせる。わたしも友人たちと駆け巡った野山を髣髴とさせる。
幕切れに近づくとさすがに眠くなっているひまがない。姉ドゥルガの死、父の帰還、嵐による家屋の崩壊、借金・・・いいことがまるでなかった。村人たちが、別れの挨拶にやってくる。実際そうであったが、姉をドロボー呼ばわりした人も出発のはなむけの言葉を告げる。全てを水に流し、改めて幸多き暮らしを得られるように願う。その優しさ。
この結末を見ると、いよいよドラマは始まるのかな、と現代人の我々はつい先走る。いよいよ新しいドラマを演ずるのは見ているあなたがたですよ、とバトンを渡されたことに気づかずに。
けれど、映画は、やはり期待されたのか、自分でも作りたくていたたまれなくなったためか、第2部「大河のうた」という続編が作られる。
私が引き継いで、お父さんを生きていってもいい。ノー天気なところは同じだから。でも、鑑賞者は自分の本義を守り、第2部鑑賞へと渡って行く。
インド・ベンガル地方の、かつて裕福だったかもしれないが、ひょっとするとバラモンか? と思われるような、神事を司るのを得意とする教養ある家柄。けれども、このような家柄ほど生活力がないものだ。父の代から落ち目になり始めていたバナルジー一家。高齢のおばとノー天気なお父さんと、おかげで一身に生活の切り盛りの責任を背負っているお母さんと、おばあさんを慕う優しさ溢れているがドロボー癖のある姉さんと息子のオプーの物語。「どん底」という言葉を連想させるほどのボンビー生活で、かつて所有していた果樹園も隣家のものとなり、母は悔しがり、娘は果樹の盗みをやめられない。頼りの父は、いつか文学作品を書いてオファーの殺到するのを夢見るばかり。
しかし、舞台が都会でなく田舎であることが救いだ。ときどき村を訪れる行商のお菓子屋さんや日本でなら紙芝居屋さんなどが訪れる。もちろん、かんたんにそれに甘んじられるほどの経済状態ではない姉弟だが、なんとなく享受でき、楽しむ。草原を横切る蒸気機関車の勇壮な姿を見に出かける。蓮の群れ咲く沼に出かける。・・・田舎には何もないはずなのだけれども、子どもたちの楽しめる何かがある。どこか、わが山形の風景を思わせる。わたしも友人たちと駆け巡った野山を髣髴とさせる。
幕切れに近づくとさすがに眠くなっているひまがない。姉ドゥルガの死、父の帰還、嵐による家屋の崩壊、借金・・・いいことがまるでなかった。村人たちが、別れの挨拶にやってくる。実際そうであったが、姉をドロボー呼ばわりした人も出発のはなむけの言葉を告げる。全てを水に流し、改めて幸多き暮らしを得られるように願う。その優しさ。
この結末を見ると、いよいよドラマは始まるのかな、と現代人の我々はつい先走る。いよいよ新しいドラマを演ずるのは見ているあなたがたですよ、とバトンを渡されたことに気づかずに。
けれど、映画は、やはり期待されたのか、自分でも作りたくていたたまれなくなったためか、第2部「大河のうた」という続編が作られる。
私が引き継いで、お父さんを生きていってもいい。ノー天気なところは同じだから。でも、鑑賞者は自分の本義を守り、第2部鑑賞へと渡って行く。
平家公達の歌 (双葉新書)
「平家物語」に収録されている和歌を紹介した本。平家一門のみならず,源氏武者や宮中の人々の歌も余さず記載されている。
ほとんどは,清盛が死去して源平の合戦が始まり,一門が都落ちして衰退していく中で詠まれたものが多く,涙を誘う。
美しくも悲しい歌の一首一首に,人の世の哀れさ,はかなさを感じずにはいられない。
ほとんどは,清盛が死去して源平の合戦が始まり,一門が都落ちして衰退していく中で詠まれたものが多く,涙を誘う。
美しくも悲しい歌の一首一首に,人の世の哀れさ,はかなさを感じずにはいられない。