かなり渋いインディペンデント映画だが、廉価版化されたことで多くの方が気軽に手に取れるようになって嬉しい。ただ、映画の中身は結構ヘビーなので、決して「気軽に観れる」映画ではないのだが(笑)。
本作が公開された2011年は、少女俳優が大人たちを向こうに回して、男勝りのタフさを見せつけ大活躍した年だった。『キック・アス』のクロエ・グレース・モリッツに始まり、『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルド、『ハンナ』のシアーシャ・ローナン。しかし、最後の最後で真打ちの登場となった。『ウィンターズ・ボーン』のジェニファー・ローレンス。この映画の何とも言えない息苦しさも凄かったが、彼女が演じるヒロインの存在感に、ただただ圧倒されっ放しの100分間だった。
ミズーリ州南部のオザーク地方。その山間部に、現代社会から見捨てられたかのような貧しい人々の住むコミュニティがある。家の周りに捨てられたガラクタの山や、錆びついた車。おそらくは、出荷されずに投棄されたと思われる、
カーペットらしき巨大なロール。湿って苔むして変色したその異様で巨大な塊の上を、子供たちが無邪気に飛び跳ねて鬼ごっこをしている。痩せこけた動物たちに、寒々とした冬に取り囲まれた風景が、生活苦を一層際立たせる。ここに住む人々は、ヒル(山)に住むビリー(スコットランド人)=「ヒルビリー」という蔑称で呼ばれる。アメリカ映画の中で、しばしば封印されてしまう存在、プア・ホワイト、白人貧困層の社会が舞台だ。
主人公の少女・リー(J.ローレンス)は、17歳にして一家の大黒柱。自家製ドラッグのディラーである父は不在、母は精神を病んで、言葉を発することもなく寝たきり。リーは幼い弟と妹、そして母の食事づくりから家事全てを一人でこなしている。生活資金は底を尽き、隣人の援助にすがる日々。そんな時、警察に逮捕されていた父が、保釈中に失踪したと聞かされる。裁判に父が出廷しなければ、保釈金の担保にされた家と土地は没収されてしまう。父親探しを決意するリー。しかし、唯一の頼みである叔父のティアドロップ(ジョン・ホークス)は、父がトラブルに巻き込まれ、死んだ事をほのめかす。オザーク地方の閉鎖的な社会・・・人々の口は重く、17歳の少女の前に冷たく立ちはだかる。真実を見つけ出すための、少女の孤独な戦いが始まる・・・。
この映画に寄せられた多くの絶賛の言葉の中で、「主人公のリーは、リプリーよりサラ・コナーよりナウシカより強い。本当に強い」という言葉があった。全く同感。この映画の主人公・リーの生き様に筆者が震えて感動した最大の理由は、彼女はあまたのアメリカ映画の中で描かれてきた「男勝り」のヒロインたちと決定的に違うところがある、という事。それは己が「タフ」である事をことさら主張しない点である。そう、リプリーやサラ・コナーといったヒロインたちは、男もタジタジになるような「強い女」である事をアピールする。それは逆に考えれば、古いアメリカの男性優位のマッチョイズムに対する反抗と自己主張が投影されたものだ。しかし、少女リーを動かすものはそうした社会へのコンプレックスや反抗ではなく、ただ「家族を守る」という思いである。リーは、己の境遇を嘆いたり、文句を言ったりはしない。銃や拳を武器に戦うわけではない。ただひたすら、黙って現実に立ち向かってゆくのである。
舞台になるのは、ヒルビリーの保守的で排他的な社会。その息詰まるような閉塞感は想像を絶する。リーに何かを知られると都合の悪い大人たちが、寄ってたかって少女を取り囲んで、ブチのめすのである。いい大人が、17歳の少女を!
そして自分の命の危険を感じたリーは、自分が還って来れなくなることを考え、幼い弟と妹に、銃を使ってリスを狩り、獲物を捌いて「自活」する方法を教えるのである。17歳の少女が、である!普通なら、この年頃の少女は、遊びたいし恋もしたいし、欲しいものだってたくさんあって、親におねだりして、あげくの果てには「誰も私のことなんか解ってくれない!」何て言ったりもするだろう。でも、リーは一言も不平不満を言わない。何かが欲しい何てことも言わないのだ。それどころか、己の死をも冷静に覚悟する潔さ。このシーンには、本当に震えて目が潤んでしまった。まるでドキュメンタリーを観ているかのような錯覚すら覚える、獲物を捌く手馴れた手つき。ジェニファー・ローレンスの、ほとんど演技をしているとは思えないような自然体の演技・・・そのキャラクターになりきって、もはや少女リーの人生を見させられているような迫真の演技に、ひたすら圧倒された。
『あの日、欲望の大地で』で、キム・ベイシンガー、シャーリーズ・セロンのオスカー女優二人を向こうにまわして軽く圧倒。ヴェネチア映画祭で「マル
チェロ・マストロヤンニ賞」を獲って
ハリウッドの演技派女優を完全に食ってしまった究極の「自然体」の演技力を、本作で決定的なものにしたと言って間違いない。クロエ・グレース・モリッツもヘイリー・スタインフェルドもシアーシャ・ローナンも皆素晴らしい若手女優なのだが、ジェニファー・ローレンスは何というか、もう違う次元に存在しているような気がする。脱帽です。
他にも出演者では、冷たい素振りを見せつつ、陰ながらリーを見守る叔父・ティアドロップを演じたジョン・ホークス(『フロム・ダスク・ティル・ドーン』『アメリカン・ギャングスター』)の、観るものを静かに圧倒する演技も素晴らしい。また『ツイン・ピークス』でローラ・パーマーを演じたシェリル・リーが主人公の母親を演じていたり(見る影もないオバサンになっていたのがショック・・・言われないと判らないと思う)、また、本作に登場する胡散臭そうな保安官、どこかで見た顔だなぁ・・・と思ったら、海外ドラマ『ターミネーター サラ・コナー・クロニクル』でターミネーターを演じたギャレット・ディラハントだったりと、脇を固める俳優が妙にマニアックなところも筆者的にはちょっと楽しかった。
監督は、インディペンデント系で活躍するデブラ・グラニック。ドキュメンタリーに近い静謐な人間ドラマの演出の中に、ひしひしと伝わってくる緊張感とカメラが捉えた寒々しい風景は秀逸。そして、リアルなだけでなく、神話的・おとぎ話的なファクターも物語に入れ込まれている。パンフレットで、町山智浩氏がヒルビリー文化に関する素晴らしい紹介文を書かれていて、その中で、クライマックスの湖でのシーンを、アーサー王のエクスカリバー返還のエピソードと重ねて、物語の神話性を指摘されていたが、ヒルビリーの人々のルーツを考えると、とても意味深な分析だ。「老婆」たちがリーのお供になる点も、監督は意図を持って演出していると思う。
ロケ地も、原作の舞台に忠実にミズーリ州で行われ、この映画の中には本当のヒルビリーの人たちも登場する。だからこの映画の中に出てくる風景は作られたものではなく、そこにはリアルなヒルビリー社会が写し撮られているのである。
本作はインディペンデント・ムービーの優れたところが全面に出て見事成功を収めた作品だ。サンダンス映画祭でグランプリ&脚本賞をとった鳴り物入りの傑作。デブラ・グラニック監督の手腕にも拍手を贈りたい。
最後に、「ウィンターズ・ボーン」とは、「人を喜ばせるために与える、ちょっとした贈り物」を意味するスラング・・・いわば、
犬に投げてやる骨の事、だという。この映画は、ミステリーではない。だから謎が解かれ、物語が気持ちよく解決される訳ではない。ラストの、ある人物が言うセリフは、観る者にもの凄い消化不良を与えて映画を締めくくってしまうくらいだ。しかし、主人公リーの、家族を守るための戦いの果てに待っているささやかな「ウインターズ・ボーン」とは何なのか・・・人生は、続く。人は色々なものを背負いながら、それでも「生きていかなければならない」のだ。そして、そんな事を17歳の少女に教えられてしまう映画だった。
『
ハンガー・ゲーム』でスター女優になる前のジェニファー・ローレンスが、その圧倒的演技力を見せた作品としても、彼女のファンなら要チェックの作品である。