大樹のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
3部作の中でどれがいちばんおもしろかったか、と聞かれて、眠ってばかりいたわたしはとっさに答えたのが第3作目の本作「大樹のうた」だった。前作までよく眠ったので3作目は眠らずに済んだから。そして何よりおもしろくて眠らずに済んだから。
しかし、賢そうな友人たち二人はともに「第一作目」を挙げたのだった。
それから42年後の現在、見直してみて思うにやはりわたしには第3作目が「一番おもしろい」と答えたい。
負けず嫌いでいうのではない。わたしのポピュリズムがそうだというのだ。第1作目はたしかに崇高だ。
創造者は必ず3部まで作りたがるという。創造は三部構成になっているようだ。そして第1作目が一番おもしろい、とよくいわれている。そういうことでは第1作目がいいデキだったとはいえる。
創造者は処女作を越えられるか、といわれているが、なかなか越えられないといわれている。創造者のそれまでの全てが内包された神話のようなものだからだ。
崇高さ、神聖さが好きな人なら以上のことで第1作目になるだろう。ところが私は根っからの俗物(ポピュリスト)である。
第1作で成功したサタジット・レイ監督はしかし第2作は興行的に失敗した。他の作品の制作で糊口をしのぎ、やっと制作に漕ぎついた第3作は大人の知恵を大分学んだのではないだろうか。
長い前置きになったが、第1作目からすればお金と技術が潤沢になり、かわりに大衆受けする要素を盛り込んだ、神話性、崇高さに引かれる者にはテレビドラマのようでレベルの低いものに見えたことだろう。しかしわたしにはそういうものでなければつまらないと感じるタイプなのだ。
具体的にいうと本作はよくある青春ドラマなのだ。経済的事情で大学を中退せざるを得なかったオプルボ・ライ(オプー)は就活するもうまく行かずくさっていた折、友人のプルーに誘われて田舎の結婚式に行くのに付き合わされる。花婿が暑さに発狂してしまい、花嫁が呪われるという迷信によってオプーが代役で花嫁を引き取らされてしまう。こうして始まった新婚生活がわたしのような根っからの俗物には楽しいのだ。
学生時代は未熟だったからか、花嫁の美しさがまるで分からなかった。今見ると、なんととても美しくかわいらしい。初夜の動作も奥深しい。
俗物から声を大きくして訴えたい! やはり「大樹のうた」はいい! むしろ大発見だ。
花嫁オポルナは美少女だ!
続くカルカッタでの新婚生活もとっても愛らしい。愛があれば貧しさは耐えられる・・・その勢いは出産のために帰省する嫁を見送るプラットホームのシーンまで続く。
嫁さんは早産のダメージで死んでしまい、落ち込んだオプーは虚無的になって放浪し、大切な小説の創作も捨ててしまう。ものすごく深刻な場面だが、ここら辺はちょっと引いて見れば笑い話だ。愛の薄い現代人ならはたしてそこまで深刻になれるか。映画の原作者も愛する人の死をネタにして小説にした(・・・猛省)。映画では葬式に出た気配が感じられない。割愛したのだろうか。ともかく忘れ形見の息子に一度も会いに来ない。義父は憤りを感じている。その捌け口がかわいいはずの孫への仕打ちだ。孫は孫ですっかりひねくれている。
友人プルーは第2部からの同級生で貧しいオプーを何かと面倒を見てくれているが、嫁を紹介したという責任感もあってか、彷徨するオプーを探し当て、息子に会えと説教する。オプーには会えないわけがあった。息子は愛する妻を死なせた張本人だからだ。なるほど、そういう思い込み方もあったかと思う。われわれなら、子どもは妻の忘れ形見として、妻への愛情を代わって子どもに注ぐ。それが過干渉になって問題を起こす、という形になるのではないか。インドではそう来るか、という感じだ。息子といえども、他者だ。それでも友人の厚意を尊重して会いに行ったオプー。オプーが息子を許した場面はない。会いにいったときはすでに許していた趣がある。単に様子を見に行ったとも受取れる。もしそうならどこで、いつ彼は息子を許したのか。ひねくれている息子カジョルとどう和解するか。じいさんにステッキでせっかんされそうになったときではないか。オプーは身体を張ってやめさせたのだ。このとき、二人の溝はかなり狭まった。
カジョルは、オプーのことを多分、父親では?ということは感じているが、これまで全然会いに来てくれなかったという屈折がある。カジョルの気持ちを汲んで、「おじさんは何者?」という問いに「友だちだ」と答える。そう、父親なら和解するのに時間がかかる。しかし友だちならすぐに欲しいだろう、と読んでのことだ。そして息子を肩車する。最高のスキンシップだ。垣根の亡くなった二人の間ではもはや、父親、友だち、どちらでもいいのだ。それがさしあたっての和解なのだ。
ちなみにこの息子も非常なる美少年だ。この少年の瞳は「ミツバチのささやき」の少年の瞳を髣髴させる。
名作とは、特殊であるよりは一般的であり、一般的なもののお手本になるようなものではないか。つまり名作とは特殊なものではなく窮極の一般化。ポピュリズムの代表だ。みんなが望んでいるものを理想的に実現したもの。サタジット・レイ監督は3部作において、固有の作品と普遍の作品をともに完成させたのだ。
この和解の場面は名シーンと評価されているはずだ。「ペーパー・ムーン」の最後の場面、自由になりたい父親は生意気だが父を慕って付いていきたい娘にしてやられ、帽子を地面に叩きつけて承諾する名場面をなぜか思い出す。人生の喜怒哀楽はすべて池袋文芸座で教わった・・・と思われる。
しかし、賢そうな友人たち二人はともに「第一作目」を挙げたのだった。
それから42年後の現在、見直してみて思うにやはりわたしには第3作目が「一番おもしろい」と答えたい。
負けず嫌いでいうのではない。わたしのポピュリズムがそうだというのだ。第1作目はたしかに崇高だ。
創造者は必ず3部まで作りたがるという。創造は三部構成になっているようだ。そして第1作目が一番おもしろい、とよくいわれている。そういうことでは第1作目がいいデキだったとはいえる。
創造者は処女作を越えられるか、といわれているが、なかなか越えられないといわれている。創造者のそれまでの全てが内包された神話のようなものだからだ。
崇高さ、神聖さが好きな人なら以上のことで第1作目になるだろう。ところが私は根っからの俗物(ポピュリスト)である。
第1作で成功したサタジット・レイ監督はしかし第2作は興行的に失敗した。他の作品の制作で糊口をしのぎ、やっと制作に漕ぎついた第3作は大人の知恵を大分学んだのではないだろうか。
長い前置きになったが、第1作目からすればお金と技術が潤沢になり、かわりに大衆受けする要素を盛り込んだ、神話性、崇高さに引かれる者にはテレビドラマのようでレベルの低いものに見えたことだろう。しかしわたしにはそういうものでなければつまらないと感じるタイプなのだ。
具体的にいうと本作はよくある青春ドラマなのだ。経済的事情で大学を中退せざるを得なかったオプルボ・ライ(オプー)は就活するもうまく行かずくさっていた折、友人のプルーに誘われて田舎の結婚式に行くのに付き合わされる。花婿が暑さに発狂してしまい、花嫁が呪われるという迷信によってオプーが代役で花嫁を引き取らされてしまう。こうして始まった新婚生活がわたしのような根っからの俗物には楽しいのだ。
学生時代は未熟だったからか、花嫁の美しさがまるで分からなかった。今見ると、なんととても美しくかわいらしい。初夜の動作も奥深しい。
俗物から声を大きくして訴えたい! やはり「大樹のうた」はいい! むしろ大発見だ。
花嫁オポルナは美少女だ!
続くカルカッタでの新婚生活もとっても愛らしい。愛があれば貧しさは耐えられる・・・その勢いは出産のために帰省する嫁を見送るプラットホームのシーンまで続く。
嫁さんは早産のダメージで死んでしまい、落ち込んだオプーは虚無的になって放浪し、大切な小説の創作も捨ててしまう。ものすごく深刻な場面だが、ここら辺はちょっと引いて見れば笑い話だ。愛の薄い現代人ならはたしてそこまで深刻になれるか。映画の原作者も愛する人の死をネタにして小説にした(・・・猛省)。映画では葬式に出た気配が感じられない。割愛したのだろうか。ともかく忘れ形見の息子に一度も会いに来ない。義父は憤りを感じている。その捌け口がかわいいはずの孫への仕打ちだ。孫は孫ですっかりひねくれている。
友人プルーは第2部からの同級生で貧しいオプーを何かと面倒を見てくれているが、嫁を紹介したという責任感もあってか、彷徨するオプーを探し当て、息子に会えと説教する。オプーには会えないわけがあった。息子は愛する妻を死なせた張本人だからだ。なるほど、そういう思い込み方もあったかと思う。われわれなら、子どもは妻の忘れ形見として、妻への愛情を代わって子どもに注ぐ。それが過干渉になって問題を起こす、という形になるのではないか。インドではそう来るか、という感じだ。息子といえども、他者だ。それでも友人の厚意を尊重して会いに行ったオプー。オプーが息子を許した場面はない。会いにいったときはすでに許していた趣がある。単に様子を見に行ったとも受取れる。もしそうならどこで、いつ彼は息子を許したのか。ひねくれている息子カジョルとどう和解するか。じいさんにステッキでせっかんされそうになったときではないか。オプーは身体を張ってやめさせたのだ。このとき、二人の溝はかなり狭まった。
カジョルは、オプーのことを多分、父親では?ということは感じているが、これまで全然会いに来てくれなかったという屈折がある。カジョルの気持ちを汲んで、「おじさんは何者?」という問いに「友だちだ」と答える。そう、父親なら和解するのに時間がかかる。しかし友だちならすぐに欲しいだろう、と読んでのことだ。そして息子を肩車する。最高のスキンシップだ。垣根の亡くなった二人の間ではもはや、父親、友だち、どちらでもいいのだ。それがさしあたっての和解なのだ。
ちなみにこの息子も非常なる美少年だ。この少年の瞳は「ミツバチのささやき」の少年の瞳を髣髴させる。
名作とは、特殊であるよりは一般的であり、一般的なもののお手本になるようなものではないか。つまり名作とは特殊なものではなく窮極の一般化。ポピュリズムの代表だ。みんなが望んでいるものを理想的に実現したもの。サタジット・レイ監督は3部作において、固有の作品と普遍の作品をともに完成させたのだ。
この和解の場面は名シーンと評価されているはずだ。「ペーパー・ムーン」の最後の場面、自由になりたい父親は生意気だが父を慕って付いていきたい娘にしてやられ、帽子を地面に叩きつけて承諾する名場面をなぜか思い出す。人生の喜怒哀楽はすべて池袋文芸座で教わった・・・と思われる。
平家公達の歌 (双葉新書)
「平家物語」に収録されている和歌を紹介した本。平家一門のみならず,源氏武者や宮中の人々の歌も余さず記載されている。
ほとんどは,清盛が死去して源平の合戦が始まり,一門が都落ちして衰退していく中で詠まれたものが多く,涙を誘う。
美しくも悲しい歌の一首一首に,人の世の哀れさ,はかなさを感じずにはいられない。
ほとんどは,清盛が死去して源平の合戦が始まり,一門が都落ちして衰退していく中で詠まれたものが多く,涙を誘う。
美しくも悲しい歌の一首一首に,人の世の哀れさ,はかなさを感じずにはいられない。
大地のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
故黒澤明が推していたという安易な理由で観たのですが、すばらしい映画でした。
これが本当に1955年のインド映画なのかと、見縊っていた自分が恥ずかしくなりました。
黒澤明の映画にも共通する、”時代の風潮”を隠しスパイスとして取り入れており
最後までどっぷりその世界観に浸ることが出来ました。
これだからモノクロ映画はやめられません。
これが本当に1955年のインド映画なのかと、見縊っていた自分が恥ずかしくなりました。
黒澤明の映画にも共通する、”時代の風潮”を隠しスパイスとして取り入れており
最後までどっぷりその世界観に浸ることが出来ました。
これだからモノクロ映画はやめられません。
大河のうた 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]
淀長さんの解説を聴いていて思い当たったことがある。
「大地のうた」で世界的にヒットしたわけだが、もちろん、旧宗主国イギリスがこの作品をどの国よりもまして懐深く受け入れなかったわけがない。その流れで、映画監督の名とともに、背景で物語の節目節目にインパクトのある音楽を奏でていたラヴィ・シャンカールの名もまた注目されたことだろう。ビートルズのジョージ・ハリソンが、シタールなどインド楽器の手ほどきを仰ぎにインドまで出向くついでに、他のメンバーもインドに行き、インドの風俗や哲学、宗教に傾倒し、その摩訶不思議な神秘性からサイケデリック調に及んでいく・・・。
第1部は、まるで神話の世界であった。わが妻に「あなたも同じよ」といわれたが、夫は全く生活力のない、しかしそれは宗教的信念に因ったのかもしれないが、子どもたちは小さく、唯一、生活力のある妻であり母が大黒柱になっていた。
第2部は、この母サルバジャこそ主人公なのでは? と思えるほどの存在感を発していた。実際、そうであることに異論を挟む方は余りおられないのではなかろうか。
母は料理が上手で生活を支えたのだが、カーストでは階級の低い者の手にしたものは、高い者は食べないわけだから、出自が身分の高い者らしい。はたして、窮乏生活を見かねた校長先生風の伯父が二人を引き取りに来た。といっても裕福になったわけではなさそうだ。
オプーが学校に行きたいとゴネる姿は小栗康平監督の「泥の河」を想起した。
オプーが学校で文部省の視察官の前でベンガル語で詩を朗読するところは見どころの一つだが、朗読のイントネーションは、70数歳を越えた山形県の詩人と同じである。不思議な感じだ。
そのオプーは成長するにしたがってお母さんに反抗的になるのは当然だが、母がとても痛ましい。独立飛躍の大志を抱くのは健全な青年の心のありかただ。しかし、病身の母にはとても辛い。たくさんの文学ではこの難題に葛藤してきたことだろう。それはやむを得ないことなのだ。何がおもしろくて女は母を務めているのだろう。自分勝手な家族の生活のしわ寄せを一身に引き受けて、置いてけぼりにされても恨むことなく生涯を全うする存在。
本作品で、画期的に見事にそれが描かれていたというわけではない。大げさなドラマもなく、悟った風情もなく、しかし、観客を嗚咽させる名場面になっているというのは、サタジット・レイの才覚とインドの風土のなせる技なのだろう。
第2部で名優たちはみな去った。オプーの活躍する、オプーが主人公の映画がいよいよ始まるのだ。
数十年前、本画3部作を一気に見たとき、まどろみの眼から垣間見て印象に焼きついた場面は、父が死に際、ガンジス河の水を飲みたいといったところだ。
わたしはそんな神聖なものを獲得しているだろうか。
「大地のうた」で世界的にヒットしたわけだが、もちろん、旧宗主国イギリスがこの作品をどの国よりもまして懐深く受け入れなかったわけがない。その流れで、映画監督の名とともに、背景で物語の節目節目にインパクトのある音楽を奏でていたラヴィ・シャンカールの名もまた注目されたことだろう。ビートルズのジョージ・ハリソンが、シタールなどインド楽器の手ほどきを仰ぎにインドまで出向くついでに、他のメンバーもインドに行き、インドの風俗や哲学、宗教に傾倒し、その摩訶不思議な神秘性からサイケデリック調に及んでいく・・・。
第1部は、まるで神話の世界であった。わが妻に「あなたも同じよ」といわれたが、夫は全く生活力のない、しかしそれは宗教的信念に因ったのかもしれないが、子どもたちは小さく、唯一、生活力のある妻であり母が大黒柱になっていた。
第2部は、この母サルバジャこそ主人公なのでは? と思えるほどの存在感を発していた。実際、そうであることに異論を挟む方は余りおられないのではなかろうか。
母は料理が上手で生活を支えたのだが、カーストでは階級の低い者の手にしたものは、高い者は食べないわけだから、出自が身分の高い者らしい。はたして、窮乏生活を見かねた校長先生風の伯父が二人を引き取りに来た。といっても裕福になったわけではなさそうだ。
オプーが学校に行きたいとゴネる姿は小栗康平監督の「泥の河」を想起した。
オプーが学校で文部省の視察官の前でベンガル語で詩を朗読するところは見どころの一つだが、朗読のイントネーションは、70数歳を越えた山形県の詩人と同じである。不思議な感じだ。
そのオプーは成長するにしたがってお母さんに反抗的になるのは当然だが、母がとても痛ましい。独立飛躍の大志を抱くのは健全な青年の心のありかただ。しかし、病身の母にはとても辛い。たくさんの文学ではこの難題に葛藤してきたことだろう。それはやむを得ないことなのだ。何がおもしろくて女は母を務めているのだろう。自分勝手な家族の生活のしわ寄せを一身に引き受けて、置いてけぼりにされても恨むことなく生涯を全うする存在。
本作品で、画期的に見事にそれが描かれていたというわけではない。大げさなドラマもなく、悟った風情もなく、しかし、観客を嗚咽させる名場面になっているというのは、サタジット・レイの才覚とインドの風土のなせる技なのだろう。
第2部で名優たちはみな去った。オプーの活躍する、オプーが主人公の映画がいよいよ始まるのだ。
数十年前、本画3部作を一気に見たとき、まどろみの眼から垣間見て印象に焼きついた場面は、父が死に際、ガンジス河の水を飲みたいといったところだ。
わたしはそんな神聖なものを獲得しているだろうか。