イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)
イエズス会というのは本書にもある通り、カソリックの中では比較的新しい(か?)修道会だけれど、にもかかわらず、ヨーロッパの新大陸貿易の波に上手く乗って、世界的に大きく勢力範囲を広げることになった。
で、本書はその背景にあるイエズス会の経済的、軍事的戦略と全く未知の異教文化に入って行く際の方法論などについての研究書なのだ。ま、言ってみりゃイエズス会のマーケティング戦略といったところだろうか。
それは確かに極めて細かく構築された戦略であり、充分に状況を見て判断し、決して「押しつけ」にならないような形で庶民の文化に入り込んで行くための方策として練られたものだった。
ただそれが「軍事的」色彩を帯びて来たとき(それは最大のバックアップスポンサーであったポルトガルの国力が傾き始めるのと時を一にする)、必要以上の警戒感を秀吉に与えることとなり「宣教師の追放令」という最悪の帰結を見ることになってしまった。
それにしてもこういった宗教の集団ですらこれだけの読み込みを行って「外交」に臨むのに、現代の日本にあって対外理解というものがどの程度までなされているのか、甚だ疑わしいものがある。
霊操 (岩波文庫)
霊躁は一ヶ月のプランで構成されているが、短くして8日間で一通り体験することができる。この本は読んでみれば解るが、読んだだけでは何の効果もないことがわかる。実際イエズス会修道院において司牧者のもとで指導を受けることが望ましい。
わたしは8日間の霊躁を受けたが、たかが8日間といえども長いもので、逆に途中でついていけなくなったりしたら時間を取り戻すことは不可能である。つまり霊躁を始める前には準備が必要である。簡単に言うならば、数日前からあわただしい生活から離れ心を落ち着かせておく必要がある。たしか金曜日の夜から日曜日にかけての二泊三日の黙想会もあるので、それはとても参考になると思う。
霊躁はカトリック教会における静養だが、根本的には曹洞宗の禅と同じである。瞑想は結果的にどの宗教も同じことをしているといえる。日本語訳はいくつか出版されているが、司牧者の方から良い訳といわれるのはこの岩波文庫である。それは日本人に合った解説が付けられているからといえる。
この書物は本格的に遂行しようと思うならば、一ヶ月の時間を作らなければならない。よって時間を作れない仕事はやめなければならないだろう。その場合、霊躁を受けたいが仕事の方が大切であることは最もであることを熟慮する必要がある。いずれにしても霊躁を受けることは困難であるが、わたしから言ってみれば選ばられた者が受けることができる。
しかしそれ以上に霊躁を受けた者は必然的にそれからの道が決まっているだろう。霊躁は自分を見つめなおし、これからの生活を新しく生きていくことを目的としている。
神性の流れる光―マクデブルクのメヒティルト (ドイツ神秘主義叢書)
中世の女性神秘家マクデブルクのメヒティルトが、信仰に於ける神秘体験を官能性豊かに著した書です。
まず驚嘆させられるのは、信仰と神秘体験に纏わる描写の豊穣です。信仰の告白に留まらず、天上や煉獄の光景、神との交感といった神秘体験が、豊かな想像力の下で 象徴、寓喩、頓呼、引用、翻案といった技法を駆使して描かれます。描写の精緻は秀逸な文学作品と呼んで差し支えなく、それが読む者の心に惹き起す感慨は凡百の文学作品の及ばないところです。メヒティルトが神への愛の奔流に身を任せ、俗世の堕落に心を擦り減らし、神との交感に悦ぶ時、彼女の揺動は私達にも伝播し、私達の精神と肉体を遥か深いところで疼かせます。
そして何よりも本書を嘆賞されるべきものとしているのは、女性の受容性によって初めて可能となるであろう、魂と神性の交感の官能的な鮮烈と濃密です。性愛を連想させる表現で語られるそれは官能的な場面を私達に現前せしめますが、その本質はどこまでも清醇で澄明なものです。神性との交感と法悦の官能性が、知性を旨として神との交感を果たそうとする男性聖職者の嫉妬を招き、異端との謂われない誹りを被ったことも首肯できます。
メヒティルトの神秘体験が高い表現力で豊穣に描かれているために、これを読む私達にも身に迫って感じられますが、彼女の体験を可能にしたのは謙譲に立脚した厳格な信仰であることを忘れてはいけません。彼女の体験の表象のみに目を奪われるのではなく、彼女の憧憬、信心、敬虔、苦痛、苦悩、法悦といった魂の遍歴にこそ思いを致すべきでしょう。本書を秀異たらしめているのはここで描かれている扇情的な外殻ではなく、只管に神のみを求め、神へのみ愛を捧げる魂の生を突き動かす官能性にあるのです。そして、官能性とはここではもはや身体を離れた生の奔流の様を表す言葉なのでしょう。