ヤマネコ・ドーム
ミッチ,カズ、ヨン子,ター坊,ケルト,ジョイス,トミー,ノブ,アニー,マコ,ジェフ,ソニア,オデールとカタカナの登場人物が次から次へと登場します。
舞台も時間もこれまでの津島氏のどの作品よりもめまぐるしく、行を空けるだけで時間も場所も移ります。
時間は終戦直後から3.11を超えて。
舞台は東京,北海道,ローマ,パリ,ベトナム,インド,デンマーク,ハワイ,香港,シンガポール,カナダ,フランスと移動します。
子どもの頃、池の近くでオレンジ色のスカートをはいた混血児のミキちゃんと母子家庭に育つター坊を見かける。
そしてミキちゃんは水死体で見つかる。
それを間近に見た近くの施設で暮らす混血児たち各のIDと死者との折り合いをつける物語でしょうか。
あまりに混沌として非常に読みにくかったです。
津島氏に土地勘がある六義園か古河庭園をイメージしてみましたが、私が子どもの頃あちこちに残っていた防火用水池の方がイメージしやすかったです。
あの頃はよく子どもが落ちて死んだ話を聴かされました。
また、青い目をした少年が小学校に入学してきて、その子の家に遊びに行くと大きな家の裏の2畳ほどのバラックにお母さんと住んでいました。
ある日の朝礼の時間、少年は突然数人の大人たちにどこかに手を引かれて行かれました。
それ以来、その少年と母親に会うことはありませんでした。
そんなことを思いださせる小説でした。
舞台も時間もこれまでの津島氏のどの作品よりもめまぐるしく、行を空けるだけで時間も場所も移ります。
時間は終戦直後から3.11を超えて。
舞台は東京,北海道,ローマ,パリ,ベトナム,インド,デンマーク,ハワイ,香港,シンガポール,カナダ,フランスと移動します。
子どもの頃、池の近くでオレンジ色のスカートをはいた混血児のミキちゃんと母子家庭に育つター坊を見かける。
そしてミキちゃんは水死体で見つかる。
それを間近に見た近くの施設で暮らす混血児たち各のIDと死者との折り合いをつける物語でしょうか。
あまりに混沌として非常に読みにくかったです。
津島氏に土地勘がある六義園か古河庭園をイメージしてみましたが、私が子どもの頃あちこちに残っていた防火用水池の方がイメージしやすかったです。
あの頃はよく子どもが落ちて死んだ話を聴かされました。
また、青い目をした少年が小学校に入学してきて、その子の家に遊びに行くと大きな家の裏の2畳ほどのバラックにお母さんと住んでいました。
ある日の朝礼の時間、少年は突然数人の大人たちにどこかに手を引かれて行かれました。
それ以来、その少年と母親に会うことはありませんでした。
そんなことを思いださせる小説でした。
笑いオオカミ
私たちのように地球に生まれてくる生命体は、誕生と同時に、必ずそこに死を含めていなければならない宿命を持ち合わせている。この"死"あるいは"終わり”の時は見えなくて、だからこそなのだろうか、私たち人間たちは、すぐ隣に潜んでいるらしい”彼岸の世界”を恐れ、そしてあこがれを抱いている。
「ヒトの命・ムシの命」”いんなあとりっぷ”の中でも語られているように、「生き物というものは地球のエネルギーのしぶき」のようなものであり、「これまでに死んだ無数のムシたち、ヒトたちは”命”の海に戻っただけ」なのだとする、津島佑子の生命体の「可逆の可能性」を、『ジャングル・ブック』(Rudyard Kipling)から連想される「ジャングルの思想」と幾層にも重ね合わせて描こうとした文学的意欲が津島佑子という芸術家の現在ではないだろうか。
私たちの「生」は、ムシたちの「生」に比べて何ら優れているものではない・・・
ただ、私たちは「アケーラ」や「モーグリ」たちのように、その「生命体の、飛び散るしぶき」を見つめ、
そして描くことのできる"眼"を持っているだけなのである。
その"眼"が捉えた"命"と"可逆の可能性"こそが、この『笑いオオカミ』なのである。
「ヒトの命・ムシの命」”いんなあとりっぷ”の中でも語られているように、「生き物というものは地球のエネルギーのしぶき」のようなものであり、「これまでに死んだ無数のムシたち、ヒトたちは”命”の海に戻っただけ」なのだとする、津島佑子の生命体の「可逆の可能性」を、『ジャングル・ブック』(Rudyard Kipling)から連想される「ジャングルの思想」と幾層にも重ね合わせて描こうとした文学的意欲が津島佑子という芸術家の現在ではないだろうか。
私たちの「生」は、ムシたちの「生」に比べて何ら優れているものではない・・・
ただ、私たちは「アケーラ」や「モーグリ」たちのように、その「生命体の、飛び散るしぶき」を見つめ、
そして描くことのできる"眼"を持っているだけなのである。
その"眼"が捉えた"命"と"可逆の可能性"こそが、この『笑いオオカミ』なのである。
黄金の夢の歌 (講談社文庫)
津島佑子『黄金の夢の歌』
サハリン島の南半分は日本領だったので、そこに住んでいたニブヒ(以前は、ギリヤークといった)、そしてアイヌも「日本人」として扱われ、日本の敗戦にともない、かれらは北海道にいやでも移住しないわけにはいかなかった。
『黄金の夢の歌』は、柄谷行人氏が朝日新聞の書評で
初めて小説を対象にした作品という。
しかし、筆者がキルギスを訪れた事を記したエッセイ風だ。
バイカル湖の話で、日本人の原型となった人々が
バイカル湖周辺から日本に渡って来たという説を思い出した。
その方向の移動ではなく、どちらでもない地点から分れて
バイカル湖と日本に向かった可能性はないのだろうか。
全編、普通なら地の文で「わたし」となると思われる人称が
「あなた」となっているのがユニークだ。
読んでいて、自分が場面に放り込まれ
自分にない記憶を呼び起さなくてはならない気になる。
ギリヤーク(村上春樹『1Q84』)、漢族の話などは
丸川哲史氏が講師をした今年3月の長池講義や
柄谷氏が最近、関心を持っている人類学と接点が多く
柄谷氏に書評される為に書かれた気さえする。
津島佑子さんは脱原発デモに来られたようです。
ニブヒと二風谷、イヌイット(アラスカ東部のエスキモーという)とアイヌの
関連はどうなのだろう。
サハリン島の南半分は日本領だったので、そこに住んでいたニブヒ(以前は、ギリヤークといった)、そしてアイヌも「日本人」として扱われ、日本の敗戦にともない、かれらは北海道にいやでも移住しないわけにはいかなかった。
『黄金の夢の歌』は、柄谷行人氏が朝日新聞の書評で
初めて小説を対象にした作品という。
しかし、筆者がキルギスを訪れた事を記したエッセイ風だ。
バイカル湖の話で、日本人の原型となった人々が
バイカル湖周辺から日本に渡って来たという説を思い出した。
その方向の移動ではなく、どちらでもない地点から分れて
バイカル湖と日本に向かった可能性はないのだろうか。
全編、普通なら地の文で「わたし」となると思われる人称が
「あなた」となっているのがユニークだ。
読んでいて、自分が場面に放り込まれ
自分にない記憶を呼び起さなくてはならない気になる。
ギリヤーク(村上春樹『1Q84』)、漢族の話などは
丸川哲史氏が講師をした今年3月の長池講義や
柄谷氏が最近、関心を持っている人類学と接点が多く
柄谷氏に書評される為に書かれた気さえする。
津島佑子さんは脱原発デモに来られたようです。
ニブヒと二風谷、イヌイット(アラスカ東部のエスキモーという)とアイヌの
関連はどうなのだろう。