知ある無知
「端的にかつ絶対的に最大な現実」(maximum simpliciter et absolute)、すなわち無限は一切の可能性を包含するがゆえに(そうでなければそれは無限ではないでしょう)、対象化される諸存在者において見出される諸々の対立的属性全ての超越的根源です。(「対立物の一致」(coincidentia oppositorum))
ここでいう「無限」は、文字通り、端的に、いかなる制約もない現実、という意味で、対象化される諸存在者をつぎつぎに付け加えていくことにおいて見出される「無際限」あるいは縮限的無限(例:数学的な無限や時空的な無限)ではありません。
諸存在者をいくら寄せ集めても絶対的無限にはなりません。無限は有限者との「比を絶しており」超越的です。諸存在者はその全ての存在可能性、現実性を、無限=普遍的可能性=可能自体(posse ipsum)に依存していますが逆は成り立ちません。可能自体なしにはいかなるものも不可能だからです。
クザーヌスは、数学的象徴を操作しそれを超越的に使用する(数学的現実を超越する現実を指し示す)ことによって、無限を「把握されない仕方で(incomprehensibiliter)知解」することができることを示します。無限は無限であるゆえに有限な知性のうちに包含されることは不可能ですからすなわち把握不能であり、そのことを知ることが「知ある無知」(docta ignorantia)です。これはクザーヌスが始めて使用した表現ではなく、アウグスティヌス、ボナヴェントウラ、さらにその原型はディオニシオスに見出されます。
ここでいう「無限」は、文字通り、端的に、いかなる制約もない現実、という意味で、対象化される諸存在者をつぎつぎに付け加えていくことにおいて見出される「無際限」あるいは縮限的無限(例:数学的な無限や時空的な無限)ではありません。
諸存在者をいくら寄せ集めても絶対的無限にはなりません。無限は有限者との「比を絶しており」超越的です。諸存在者はその全ての存在可能性、現実性を、無限=普遍的可能性=可能自体(posse ipsum)に依存していますが逆は成り立ちません。可能自体なしにはいかなるものも不可能だからです。
クザーヌスは、数学的象徴を操作しそれを超越的に使用する(数学的現実を超越する現実を指し示す)ことによって、無限を「把握されない仕方で(incomprehensibiliter)知解」することができることを示します。無限は無限であるゆえに有限な知性のうちに包含されることは不可能ですからすなわち把握不能であり、そのことを知ることが「知ある無知」(docta ignorantia)です。これはクザーヌスが始めて使用した表現ではなく、アウグスティヌス、ボナヴェントウラ、さらにその原型はディオニシオスに見出されます。
無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)
人間とは何故に不公平であるのか理解しがたい人を殺めては絶対ならないが生命を絶つこととは相反する気がする数十年も執行しなかった責任を鑑みれば刑の執行は必要なかったのではないかと思う人間は全てにおいて平等で無ければならないと強く思う之から何十回も読み返し悩むだろうと私は思う
ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)
紀元前の人の考えを、今の時代に読むことができるのって、
よく考えると、すごいことですよね。
信念を貫き通し、正義を貫く。命を賭してまで。
紀元前の時代にも、すごい人がいたもんだ。
なんて、今更話することでもないのですが。
まぁ、私だったら、即、生きながらえる方法を考えるんだろうな。
生きていて、なんぼの世界ですもんね。
信念を貫くチャンスは、また巡ってくるかもしれない。
間違いを晴らすチャンスだってあるかもしれない。
しかしながら、命をかけてまでとはいかなくても、
いや、命をかける場面もあるかもしれませんが、
人間、信念を持って生きることが大切だと思います。
信念を持っていても、すぐに曲げてしまうのも良くない。
それは、私も分かっているつもりです。
ソクラテスさん。ここまでの域に達したら、
命をかけても正しいことを貫くほどの信念を持てるのだろうか。
まだまだ30代に入ったところ。そこまでの哲学には達していませんが・・・
信念を貫く、正義を貫く美徳というものをすごく感じます。
自分も、それだけのものを持つことができるように、
日々、精進したいと思います。
ちなみに、不正な死刑宣告を受けた裁判における弁明の話ですが、
裁判という即興の場で、これだけの弁明ができる、
また話に矛盾が生じない、そんなソクラテスさんの話には、
本当に脱帽です。(ちょっと高慢に感じることも無きにしも非ずですが)
これだけの話ができる人間にもなりたいですね。
よく考えると、すごいことですよね。
信念を貫き通し、正義を貫く。命を賭してまで。
紀元前の時代にも、すごい人がいたもんだ。
なんて、今更話することでもないのですが。
まぁ、私だったら、即、生きながらえる方法を考えるんだろうな。
生きていて、なんぼの世界ですもんね。
信念を貫くチャンスは、また巡ってくるかもしれない。
間違いを晴らすチャンスだってあるかもしれない。
しかしながら、命をかけてまでとはいかなくても、
いや、命をかける場面もあるかもしれませんが、
人間、信念を持って生きることが大切だと思います。
信念を持っていても、すぐに曲げてしまうのも良くない。
それは、私も分かっているつもりです。
ソクラテスさん。ここまでの域に達したら、
命をかけても正しいことを貫くほどの信念を持てるのだろうか。
まだまだ30代に入ったところ。そこまでの哲学には達していませんが・・・
信念を貫く、正義を貫く美徳というものをすごく感じます。
自分も、それだけのものを持つことができるように、
日々、精進したいと思います。
ちなみに、不正な死刑宣告を受けた裁判における弁明の話ですが、
裁判という即興の場で、これだけの弁明ができる、
また話に矛盾が生じない、そんなソクラテスさんの話には、
本当に脱帽です。(ちょっと高慢に感じることも無きにしも非ずですが)
これだけの話ができる人間にもなりたいですね。