私は貝になりたい スペシャル・コレクターズ・エディション (初回限定生産) [DVD]
超お買い得なの見つけたので即買いしました。
戦争映画ですけど戦闘シーンがほとんど無い映画です。
価格が驚くほど安くて。
これだけ付いて本当に驚く値段です。
このDVDは通常盤を持ってたんですけど特典映像が見たくてコレクターズBOXを探してたら偶然見つけたんです。
内容は第二次世界大戦後A級戦犯が巣鴨プリズンに拘留された歴史はご存じだと思います。
皆さんがご存知な人で言うと後に不起訴になってますけどジャイアンツや読売グループの創始者の正力松太郎やモーターボート協会の笹川良一なんかも何年か拘留されてました。
その巣鴨プリズンで同じく拘留されてたBC級戦犯(AやBは罪の重さじゃなく罪の種類だそうです)がいつかきっと釈放されると信じて家族や仲間と励ましあうストーリーです。
中居くんや仲間由紀恵がメチャ熱演でしてこんなに安く買えるなんて夢にも思いませんでした。
特典ディスクも充実していて肉厚な商品だと思います。
間違いなく買いです!
戦争映画ですけど戦闘シーンがほとんど無い映画です。
価格が驚くほど安くて。
これだけ付いて本当に驚く値段です。
このDVDは通常盤を持ってたんですけど特典映像が見たくてコレクターズBOXを探してたら偶然見つけたんです。
内容は第二次世界大戦後A級戦犯が巣鴨プリズンに拘留された歴史はご存じだと思います。
皆さんがご存知な人で言うと後に不起訴になってますけどジャイアンツや読売グループの創始者の正力松太郎やモーターボート協会の笹川良一なんかも何年か拘留されてました。
その巣鴨プリズンで同じく拘留されてたBC級戦犯(AやBは罪の重さじゃなく罪の種類だそうです)がいつかきっと釈放されると信じて家族や仲間と励ましあうストーリーです。
中居くんや仲間由紀恵がメチャ熱演でしてこんなに安く買えるなんて夢にも思いませんでした。
特典ディスクも充実していて肉厚な商品だと思います。
間違いなく買いです!
私は貝になりたい スタンダード・エディション [DVD]
本編は名作といっていい作品です。演技も素晴らしい。中居君のファンでなくても楽しめますし、中居君のファンの人はこれを見て戦争の事を知ってほしいです。
特典DVDはすごいボリューム!こんだけ入ってこの値段は安いです。映画をより深く知れますし、中居君の頑張りがすごいと思います。他の俳優さんたちも出てますので、初回限定版をオススメします!
特典DVDはすごいボリューム!こんだけ入ってこの値段は安いです。映画をより深く知れますし、中居君の頑張りがすごいと思います。他の俳優さんたちも出てますので、初回限定版をオススメします!
私は貝になりたい―あるBC級戦犯の叫び
この元本は本人の「狂える戦犯死刑囚」です。本の核心は、「軍への批判」です。しかし、映画化するとき、脚本家の橋本忍氏は、彼のその思い自省するありさまを切り捨てられ、戦争下の夫婦愛に近いものになっています。これでは、本人とは全く異質の主人公にされたというしかないでしょう。
ゆれる
EXILEのCD/DVDせっと販売の「LOVE」を購入して、JONTEの存在を知りました。武道館の大観衆の前で静かに熱唱する、その歌唱力と成りは視聴者を呑み込みます。何度も何度も繰り返して聞いています。久々に巡り合ったと言えるアーチストだと思います。
私は貝になりたい オリジナル・サウンドトラック
今日、日本の映像音楽界を牽引する作曲家として活躍する久石 譲であるが、個人的には、過去数年程のあいだ、作曲家としての大きな壁につきあたっているように思う。
周知のように、近年、久石氏は積極的に大編成のオーケストラで演奏されることを前提とした作品を発表しているが、それらの多くが非常につまらないのである(特にNew Japan Philharmonic World Dreams Orchestraとの企画録音はどれもつまらないと思う)。
わたしは、過去20年程のあいだ、久石氏の才能に注目して、その録音作品の殆ど全てを聴いてきているが、近年におけるこうした大編成への志向性が、その魅力をひきたたせるのではなく、むしろ、殺ぐことになってしまっていることに漠然としたもどかしさを感じてきた。
先日、作曲法と管弦楽法を専門的に修めた知人にこうした感想を伝えてみたところ、非常に納得させられる説明をいただいた。
それは下記のようなものである。
久石 譲という作曲家の発想とは、基本的に、多様な楽器群を統合的に駆使する管弦楽法に則ったものではなく、あくまでも旋律と伴奏により構成される「ピアニスト」のそれにもとづいたものである。
そのために、そこには、オーケストラを有機的に響かせるために必用とされる「縦軸の発想」(オーケストラを構成する楽器間の対話を成立させるための対位法的発想)が非常に希薄である。
そのために、彼の大編成作品は得てしてつまらなくなってしまうのである。
だいたいこのような内容であった。
確かに、オーケストラとは、多様な構成要素(楽器群)により構成されるものであり、そのための音楽を作曲するとは、即ちそれら構成要素間の有機的な対話を構築することであるはずである。
しかし、久石 譲の音楽の魅力とは、本質的に、そうした複雑性を必用としない単純さと素朴さにあるために、物理的な大音量を生みだすほかには、そもそも大規模のオーケストラを起用する必要性のない音楽といえるのである。
そのため、近年の作品に顕著に看られるように、楽器の編成が大規模化すればするほど、作曲家の本質と表現が乖離することになってしまうのである。
端的にいえば、われわれは、そこに大音量が響いていることに感心はしても、そこに露になる質的な空疎に退屈することになるのである。
その意味では、今、久石 譲が意図している大編成への志向性というのは、実は彼の作曲家としての本質と魅力が最も表現しにくい――あるいは、作曲家としての弱味を最も露呈することになる――方向に自己をあえて追い遣るものといえると思う。
国外の映像音楽界では、作曲家とオーケストレイターの共同を許容する風土が成立しているが、実はそれは決して忌避すべきことではなく、管弦楽的発想という複雑な思考形態をもちあわせていない――しかし、例えば久石 譲のように絶妙な旋律家としての才能をもちあわせている――作曲家にとっては、むしろ、積極的に活用されるべきものなのではないだろうか?
そして、これまで長年にわたりこの作曲家を聴きつづけてきたひとりのファンとして言わせてもらうならば、久石 譲には自らの特性を真に活かすことのできるそうした共同作業のなかに是非活路を見出してもらいたいと思うのだ。
尚、この作品(『わたしは貝になりたい』)は、久石 譲の旋律家としての魅力が十全に発揮された傑作である。
確かに、大編成のオーケストラの可能性が十全に活用しきれていないという箇所も散見されるが、ここに表現されている旋律美は久石 譲という作曲家の魅力を最高の形態で表すものである。
周知のように、近年、久石氏は積極的に大編成のオーケストラで演奏されることを前提とした作品を発表しているが、それらの多くが非常につまらないのである(特にNew Japan Philharmonic World Dreams Orchestraとの企画録音はどれもつまらないと思う)。
わたしは、過去20年程のあいだ、久石氏の才能に注目して、その録音作品の殆ど全てを聴いてきているが、近年におけるこうした大編成への志向性が、その魅力をひきたたせるのではなく、むしろ、殺ぐことになってしまっていることに漠然としたもどかしさを感じてきた。
先日、作曲法と管弦楽法を専門的に修めた知人にこうした感想を伝えてみたところ、非常に納得させられる説明をいただいた。
それは下記のようなものである。
久石 譲という作曲家の発想とは、基本的に、多様な楽器群を統合的に駆使する管弦楽法に則ったものではなく、あくまでも旋律と伴奏により構成される「ピアニスト」のそれにもとづいたものである。
そのために、そこには、オーケストラを有機的に響かせるために必用とされる「縦軸の発想」(オーケストラを構成する楽器間の対話を成立させるための対位法的発想)が非常に希薄である。
そのために、彼の大編成作品は得てしてつまらなくなってしまうのである。
だいたいこのような内容であった。
確かに、オーケストラとは、多様な構成要素(楽器群)により構成されるものであり、そのための音楽を作曲するとは、即ちそれら構成要素間の有機的な対話を構築することであるはずである。
しかし、久石 譲の音楽の魅力とは、本質的に、そうした複雑性を必用としない単純さと素朴さにあるために、物理的な大音量を生みだすほかには、そもそも大規模のオーケストラを起用する必要性のない音楽といえるのである。
そのため、近年の作品に顕著に看られるように、楽器の編成が大規模化すればするほど、作曲家の本質と表現が乖離することになってしまうのである。
端的にいえば、われわれは、そこに大音量が響いていることに感心はしても、そこに露になる質的な空疎に退屈することになるのである。
その意味では、今、久石 譲が意図している大編成への志向性というのは、実は彼の作曲家としての本質と魅力が最も表現しにくい――あるいは、作曲家としての弱味を最も露呈することになる――方向に自己をあえて追い遣るものといえると思う。
国外の映像音楽界では、作曲家とオーケストレイターの共同を許容する風土が成立しているが、実はそれは決して忌避すべきことではなく、管弦楽的発想という複雑な思考形態をもちあわせていない――しかし、例えば久石 譲のように絶妙な旋律家としての才能をもちあわせている――作曲家にとっては、むしろ、積極的に活用されるべきものなのではないだろうか?
そして、これまで長年にわたりこの作曲家を聴きつづけてきたひとりのファンとして言わせてもらうならば、久石 譲には自らの特性を真に活かすことのできるそうした共同作業のなかに是非活路を見出してもらいたいと思うのだ。
尚、この作品(『わたしは貝になりたい』)は、久石 譲の旋律家としての魅力が十全に発揮された傑作である。
確かに、大編成のオーケストラの可能性が十全に活用しきれていないという箇所も散見されるが、ここに表現されている旋律美は久石 譲という作曲家の魅力を最高の形態で表すものである。