海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
村上作品の中で一番しっくり来たのがこれだなあ。それまでの作品では、クラシックから60年代の洋楽まで、ただその名前を挙げるだけだったり、「カラマーゾフの兄弟」の兄弟の名前を言って「今の日本にどれかけ言える人がいるだろうか」などとうそぶいたり、要するに知識をひけらかすところが鼻についてしょうがなかった。この「海辺のカフカ」でようやく、ホシノさんがベートーベンの「大公トリオ」に感動する心を通じて、作家の音楽論というか、批評眼を目にした気がした。ベルグソンの古典的名著「物質と記憶」を、さくらがカフカ君のイチモツをくわえながら「ふっひふほひほふ」という場面は大爆笑した。ベルグソンも形なしだ。
途中で大島さんがカフカ君を高知の別荘みたいなところに連れて行く場面。大島さんの「自然というのはある意味では不自然なものだ。安らぎというのは、ある意味では威嚇的なものだ。その背反性を上手に受け入れるにはそれなりの準備と経験が必要なんだ。だから僕らはとりあえず街にもどる。社会と人々の営みの中に戻っていく」(p324)というセリフはずっとぼんやりと感じていたことをずばり言われた気がした。
それからナカタさんは村上春樹の小説の中でも、ずば抜けてすばらしい人物だと思った。村上氏が理想とする「カラマーゾフ」のアリョーシャを描くことに成功していると思った。
若草の萌えるころ HDニューマスター版 [DVD]
邦題のイメージと内容が全く異なっていた。結構重くてシリアスなあらすじ。
アニー(J・シムカス)は、多感な女学生。彼女と同居しているのは、母親と伯母。伯母のジタが、突然脳卒中で倒れ危篤状態になる。アニーと母親は昼間は看護師にまかせ、夜間は交代で伯母を看護する。
日本と、フランスの医療の事情がかなり違うので少しとまどった。救急車を呼ぶのではなく、主治医が往診して治療する。病院に入院しない。今でも救急車の出動は少ないらしいので、医療制度の違いなのかもしれない。
アニーは、愛する伯母の死を目前にし、毎日神経をとがらしていき、周囲にもあたる。シムカスは、何事にも敏感で潔癖な年頃をよく表現していた。
ある晩、彼女は「死」を避けるように、夜の街を彷徨い歩く。「死」への恐怖。愛する者が「死」に至ることを受け入れられない。写真でしか知らない、スペイン内戦の闘士だった父の「死」が、彼女に暗い影を落としている。「死」を日常茶飯事のように軽く話す警察官にも激しく抗議する。学生運動が盛んだった当時の、日本の若者のミューズだったのが少しわかったような気がする。
ラストシーンのシムカスの表情が、すごくよかった。彼女が心身共に「大人」になり、繊細で多感な時代からの成長。「生」の喜び(赤いミニカーが象徴)を知り、誰にもやがて訪れる愛する人との「死」と別れを自然に受け入れたことがわかった。
シムカスは前半の髪を結わえた姿よりも、髪を下した姿の方が断然美しい。
この作品の中で、シムカスはセミヌードを披露していた。画質は綺麗だった。特にこのシーンは一番美しい。
「冒険者たち」しか彼女の作品を観たことがなかったので、この映画は初めての鑑賞。
テーマや話の展開は、若い人には退屈かもしれない。60年代末のフランスやヨーロッパの情勢、ベトナム戦争中の時代の雰囲気やファッションなどにも興味がもてた。
1Q84
CD全38枚、総録音時間44時間12分、全552トラック、総容量2.4GBです。
朗読者は3人で、青豆の章は女性、天吾の章と牛河の章は別の男性です。
同章内で青豆と天吾の対話的な場面もあります。
(『ねじまき鳥クロニクル』は、あの長編を男性1人が読み尽くしました)
3人の朗読者は、声質も発声法も、まずまず好ましい印象です。
(『アフターダーク』、『ノルウェイの森』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の、
ナレーター達の声質と発声法は、私は苦手でした)
"Degital Copy" は、全38枚分が3枚に圧縮されたCDです。
これはパソコンでは音声を容易に楽しむことができましたが、Walkmanに録音することは私の能力では不可能でしたので、
38枚を1枚1枚、2日がかりで録音しました。
以来、通勤往復時に552トラックのシャッフル再生を楽しんでいます。
The Catcher in the Rye
私は原書の翻訳の野崎訳を推薦します。この本は世界的に有名で
各国で翻訳がされており、一度は読んでおくべき本でしょう。
従って、私はこの本をあなたが手に取るものだとして、レビュー
を書きます。断然野崎訳です。当時の原書はその時代の反抗的若者
の言葉遣いを知る上で、文学的に、そして文化的にも貴重なものと
認識されています。野崎氏はその点に留意し、ホールデン(主人公)
の言葉遣いを難解な作業でありながら、日本語でその気品に満ちた
反抗性を表現しています。一方、村上氏はその気品を重んじるあまり、
反抗性への留意が欠如しており、現代の小説を読んでるイメージを
受けるとともに、この小説がなぜ、ホールデンが一人称として物語
が展開していっているのか、を考えさせることができていない。と
思います。そして、言うまでもなく、村上訳が野崎訳をベースに編
成されていることを留意すれば、断然....でしょう。