高く手を振る日
「春の道標」で黒井千次氏と出会った。
終戦から幾年もたたない混乱の時代を背景に、高校生の痛切な恋愛をみずみずしい文章で描いた「春の道標」に私は心奪われ、幾度も読み返した。主人公・明史のヒリヒリとした恋の苦悩に共感したのである。以来、30年近く「春の道標」は私の大切な一冊として書棚の片隅で保管されてきた。
その黒井千次氏が「高く手を振る日」を発表された。私がかって感銘を受けた著者の作品、しかも「老人の恋を主題とした小説」とのことで大いに期待して本書を手にしたが、一読して期待を裏切らぬ上質の出来栄えに感嘆した。巧みな構成、抑制された筆づかい、情景が浮かぶ的確な描写、リアリティのある台詞、まさしくプロの熟達の仕事であった。もっとも、小説技巧への賞賛は新人作家に対しては適切であっても、すでに十分過ぎる実績を積み重ねられた黒井千次氏に対しては「失礼」のそしりを免れまい。
私が感嘆したのは、「人生の行き止まり」を意識し始めた主人公・浩平がかって心動かされたことのある重子と再会し、「新しい道があるかもしれない」と胸を熱くし、やがて訪れた別れを受け入れるまでの彼の心理の移ろいを鮮やかに描き出したことにある。歳を重ねても男と女が惹かれあうのは自然なことなのだ。黒井千次氏がこの作品に込めたメッセージは明快であり、「老い」が視界に入りつつある私を深いところで励ましてくれた。
浩平が重子への思慕に焦燥する姿には「春の道標」での明史の棗への態度との共通点が認められ、二人には作者自身の体験が投影されているように感じた。つまり「高く手を振る日」は、黒井氏が極められた文学的成熟であるとともに、「春の道標」「黄金の樹」に続く氏の私小説的な作品であろうと、私は理解したのである。
働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書 (648))
著者の15年間のサラリーマン体験を踏まえて、「働くということ」を真摯に考察した本。"まえがき"によると、実社会を目前にした大学生を対象に書かれたものらしいが、私のような社会人生活三十年になる者にも琴線に触れるものがある。
著者はまず、「何のために働くのか」、「働くことは何故面白くないのか」を問い掛け、「働くこと」と趣味・遊びを対立項とする考えを否定する。「金のために働く」では余りにも味気ない。そして、「働くこと」の中に、会社の強制ではない「自己表現」を見い出す事の喜びを体験談を交え熱く語る。これが職業意識なのだ。「労働の成熟とは、痛みを感じ、血を流すような自己が仕事の中に生きている」状態を指すのだ。仕事一辺倒を勧めているのではない。「遊びと仕事は同質の意義を持つ」として、「労働」と「遊び」を相互補完的な営みと捉えている。「「遊び」の底には自己表現を核とする「労働」が沈んでいる」と言う考え方である。
私は現在、ある種の管理業務をしているが、その前はソフトウェア開発をしていた。100〜300Ksの大規模プログラムの開発体験(数回)は凄まじいものだったが、今思えば、あの頃が会社生活で一番充実していた気がする。厳しい制約の中、確かにある種の「自己表現」をしていたし、プログラム完成時(潜在バグあり)には達成感を味わったものだ。本書の内容が首肯できる理由である。
「労働」を「自己疎外」などという便利な言葉で余り簡単に処理してはならない、とまるで現代を予見したかのような先見性と洞察力に溢れた優れた論考。