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とは言え、同じスタインバーグなので当然ですがね!AI5がバンドルされてる点から見ましても!
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デカルト入門 (ちくま新書)
 近代科学の精神的な礎ともいえる哲学者デカルトの伝記とその哲学を解説する本。デカルトは、カントやガリレオらと同時代(16世紀)の人。
 デカルトは、認識のための4つの方法(戒律?)を定める。(1)私が明証的に真と認めない限り真ではない(2)困難な問題は細分化する(3)認識しやすいものから始めて少しずつ複雑なものを認識する(4)分析・総合した知識をきちんと総括する。なによりもまず徹底的に疑うことからスタート。
 永遠真理創造説:数学的観念は感覚や想像力とは独立・別個に人間精神に生得的に与えられているとする。ゆえに、人間知性は感覚を通さなくても数学的観念を認識し、発展させることができる(数学的真理によって自然法則が構成される)。人間の知性は、内なる数学的観念によって自然現象の構造探究に邁進してもよい。数学的観念とは、プラトンの「イデア」のような上位的なものではなく、「模範性」もなく、物質的事物と同じレベルのものである。
 「良識」はこの世で公平に配分されている。いいかえれば、判断する能力(弁別能力)や理性は平等である。しかし能力には差がある。これは、生まれつきの良識や理性をどれだけ開発し活用しているかによる。
 デカルトは身体感覚を疑う。夢のなかでも覚醒時とおなじような体験をするのだから、身体感覚は夢と覚醒を区別する指標とはならない。ゆえに五感に基づく認識を真理認識の方法としては否定する。数学的真理すら疑う。2+3を計算するごとに誤るように神に欺かれているのかもしれないから。すると「何も確実なものはない」という虚無な結論に至る。しかし、何も確実なものはないし世の中には何も存在しないと私を説得する懐疑主体だけはたしかに残る。ゆえに「私はある、私は存在する」という命題は必然的に真となる。ところで、「疑う私(真を裁定できない私)」には何かが欠けている。私が完全な存在でないと理解するということは、より完全な存在の観念が前提されていることになる。この結果、自分の有限性から無能力性がきわだたせられ(抽出され)、そこから「(完全な存在としての、不完全を包括する存在としての)神」の存在(存在余地?)が導き出される。すると「欺く神」は否定される。そこから「神の誠実性」が導き出される。そこから「私が明晰判明に理解するものは真である(神は欺かないので)」という規則を導き出す(これにより「真理」の根拠が「誠実な神(嘘つかない神)」になんでもかんでも依存するようになったということか?だとすれば、私はむしろ「真なるもの」をガンガン認定できることになるが?)。デカルトによれば、判断とは意志が知性の提示するものに肯定・否定の決定をすることだという。しかし、知性がおよぶ観念領域は有限であるのに意志には限界がない。意志は神の似姿といってもいい。「誤謬」とは、意志が知性によって明晰判明に認知されていないものに対して早合点して判断を下すことから生じる。なので、意志が、知性が明晰判明に提示するもののみを判断するように自己抑制すれば誤ることはないはず。そもそも、なんで知性は有限なんだ、と言われると、知性の有限性は人間の知性の本質なんだから創造主に不平をいっても仕方ない、とデカルトは答える(どうも、ちょいちょい「神」に逃げてるような気もするな)。
 ある多角形を想像するとき「精神の緊張」を経験するがこれは知性認識にはない。これは精神の本質に属していない。これが想像力である。想像力とは、何らかの物体に対して精神がそれへと向き直り、そのうちに、知性的に認識されたものに対応するものを見ている。緊張感は、精神が想定されている対象に自分の観念を投影する働きである。
 心身合一:精神は肉体と直接的に結合している。その合一に由来する感覚は、痛みや飢えなどの内部感覚、色や香りといった感覚性質に分類される(このあたりの分類センスはなんとなくカントっぽい)。
 物質即延長:空間あるところのはかならず物質があり、空間と物質は相即的である、という。このテーゼにより真空の存在は否定される。宇宙は無際限に拡がる(ここは論拠が今ひとつよくわからなかった)。物質即延長説により、デカルトは天上と地上の等質性を唱える(天上と地上に階層差はない)。ガリレオやデカルト以前の世界観では天上は円運動、地上は直線運動という階層的自然観だったが、デカルトは天上も地上も直線運動を基本とした(それゆえに宇宙は無際限、という説に至るってことか?)。デカルトは、運動を「ある物体が1つの場所から他の場所にうつりゆく作用」と定義したが、このあたりまえのような定義は科学を確立する上で非常に重要な概念。というのはアリストテレス的世界観では、運動とは物が固有の目的や形相を実現する過程、と解釈されていたから。
 一方、デカルトは物質即延長のテーゼに囚われたため、重力を空間に充満する微細物質の作用に求めようとした。ガリレオが自由落下を定式化しても、デカルトはその定式を「基礎なし」に立てたと批判。あくまでも、認識の土台(なぜそうなるのか)がないと納得出来ないのがデカルト。デカルトにとって哲学(原理)と科学(実践)は不即不離であり、その意味ではデカルトは「原理(宇宙のしくみ)」にこだわりすぎた。一方、ガリレオは実践的で、自由落下等の数学的解析に専念して成果をあげた(それゆえに「近代物理学の父」となることができた)。ニュートンもガリレオもデカルトの力学を基盤にしている。ただし、ニュートンはデカルトの物質即延長の教義は(賢明にも?)拒否。ニュートンは「質点(質量集中点)」の概念を生み出し、不動で空虚な絶対空間における質点の運動、として古典力学を構築した。ところが、やがてニュートン物理学にはあてはまらない自然事象が見出され、これらは相対性理論と量子力学によって乗り越えられることになる。これらの新しい物理学では物質と空間は相即的となり、おもわぬかたちでデカルトの世界観が復活。アインシュタインは、「彼(デカルト)は真理からそう遠くにはいなかった」と述べたとか。デカルトは考えるスケールが大きな人だったともいえる。 
 デカルトはまた、生物の認知活動を「動物精気」という生物物質で説明しようとする。
 心身合一(精神と肉体という二元論とは独立して認められる概念)を認め、その合一自体は、日常の生と交わりを行使することによってのみ知られる原始的概念である、とする。この概念は経験によってのみ「体得」できる(ちなみに、デカルトは剣術の訓練とかしていたらしいので、そのあたりの技能感が影響しているのか)。
 デカルトの定義によれば、「愛」とは「自分がその一部分であると考えられる全体に対してみずからの意志で合体しようとすること」であり、その対象が自分よりも低く評価されるものならそれは「愛情」であり、対等なら「友情」、高いものなら「献身」である、という(デカルト流の社会道徳観のモデリング。このあたりの「定義」「境界画定」「分類」等にこだわるところが西洋っぽい)。
 愛などの情念を具現化するのは「欲望」の情念である。「欲望」とは「精気によって起こされた精神の動揺であり、精神が自分に適合していると想定する事柄を未来に対して意志するようにしむけるもの」であるとする。つまり、善の保存、将来の善の現存化を欲するものであり、悪の不在、将来にわたる悪の不在化を欲するものであって、現在のみならず未来に向かう善悪に対する情念が欲望である、とする。デカルトによれば、われわれに依存する善を追求すべきであり(徳にしたがう、という)、われわれに依存しない事柄は宿命(神の摂理)であるから、それへの欲望は断ち切るべきである、とする。
 このように道徳から宇宙から全部を包括するような哲学というか統合モデルを作ろうとしていたらしく、その意味ではとてもスケールが大きい。

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